不登校の子どもの援助は信頼関係がとても必要だと思うのですが、学校嫌いな不登校の子どもと接するのにとても重要な、最近やっと理解できたことがあるのでお伝えします。
不登校援助には、信頼関係が必要不可欠
援助する、援助される、の関係には、信頼関係がとても大事だと思います。とても大事というよりも、根底に信頼が成り立っていないと成立しないですよね。
それは関わってくれる人と子どもや母親、また母親と子ども、それぞれに信頼関係が大事かと思います。
不登校の母親であるわたしが学校との関係で学んだこと
学校からのアドバイスや話がありがたいと感じるかは、親が学校を信頼できているかが大切だと思います。
ここでわたしの経験をお話します。
学校側が、良かれと思ってアドバイスをくれたりしました。でも、その状況が子どもの状態に合っていず、まだまだ精神的に不安定な子どもには無理なアドバイスでした。
大事な子どものことなので妥協はできないです。良かれと思っての提案もお断りしていましたが、そのうちに学校側がわたしを信頼していないのを感じるようになりました。
声音、声のトーン、つい出てしまう言葉の断片。学校側の対応で、こういった変化を感じ始めました。
心の奥で信頼していないということは、話しているうちに、ちょっとしたすき間から漏れ出てきます。
そして、学校がアドバイス通りに動かないわたしをコントロールしようしているとさえ感じ始めました。
もうこうなってしまうと、どんなに良かれと思ってのアドバイスだとしても、悲しいことに受け取れなくなってしまいました。
学校嫌いの子どもに寄り添うときに注意したい落とし穴
良かれと思ってのアドバイスとコントロール。
わたし自身が学校から受けたことです。
でも、それが信じてもらえない虚無感と反発心を起こさせるのを身を持って体験しました。
あれ?でも待てよ、と思ったのです。この学校とわたしの関係って、以前のわたしと子どもの関係と同じ?学校や周囲の大人が子どもにアプローチしようとしていたのと同じ?
拒否する子どもをどうにかしようとする構図と同じだったのです。
分かるよ、分かるよ、助けてくれようとしてるんだよね。うん。でも、今じゃないんだよ。今、わたしはとっても精神も落ち着いてるんだ。子どもと穏やかに過ごせてるんだ。子どももリラックスしてくれて、前より元気になってくれてる。わたしは欲しいものは自分で探していけるんだよ。自分で必要なものは動けるんだよ。でも、それは今じゃないんだよ。
自分でやれるのに、心配してあれやこれやとアドバイスをするのって、わたしに信頼がないんだね。でもなんで信頼ないの?これまで一生懸命子どもに接してきてるんだけど、そんなわたしのこと、分かってくれてなかったの?
↓ こどものこころに置き換えると
分かるよ、分かるよ、助けてくれようとしてるんだよね。うん。でも、今じゃないんだよ。今、僕は学校にも行けないし、本当に苦しいんだ。でも、自分でイヤなものは分かるんだよ。心配してくれるのは分かるけど、イヤなものはイヤなんだ。僕は本当は自分でやれる子なんだよ。でも今はできないんだ。学校へ行けてなくて、僕は悪い子かもしれないね。ごめんね、だから良かれと思って僕に言ってくれたりするんだよね。でも、今じゃないんだ。今はイヤなんだ。
自分で選んだり、自分で本当はやれる力があるのに、今はやれないんだ。僕のこと心配してくれてるんだよね。学校に行けてない僕はどこかオカシイのかな。ごめんね。信頼してもらえてないのは、僕がオカシイからだね。ごめんね。僕は学校にも行けないし、自分では何もできないダメな子なんだね。ごめんね。
子どもに寄り添う気持ちでいたつもりのわたしですが、寄り添っていなかったと気がついたのは、つい最近です。
わが子は学校や先生がとにかく大キライでした。(今もキライですが、以前のような強い拒絶はなくなりました)
学校側が子どもに対して何かしてあげたい、何かできることはないか、と模索してくれていて、それを先生から聞かされていたわたしは申し訳ない気持ちととてもありがたい気持ちでした。
でも、学校へのわたしの感謝の気持ちや、我が子ためにこんなことをしてもらえて申し訳ない、という気持ち。この気持ちをこころに抱えたまま子どもと接することは、学校が嫌いな子どもとわたしとの信頼関係を構築するのには良い影響は及ぼしていなかったと、今なら分かります。
学校嫌いの子どもに掛けてた間違った声掛け
わたしが我が子に言ってた言葉です。
・先生が準備してくれてね。ちょっと流すね(オンラインの文化祭の映像)
・学校に少しの時間だけ行くのもいいって言ってくれてるよ
・保健室登校っていうのもあって、もし行きたくなったら何でもやってくれるって言ってたよ
なんてことない、普通の会話に感じるかもしれませんが、わたしは、こういった言葉を子どもに掛ける時、先生がやってくれた労力、思いやりの方を大事にしていたことに気がつきました。
特にオンラインの文化祭の映像は、先生が我が子にだけに準備してくださったものです。負担にならない範囲で、との思いも感じたので、それを子どもも見れるようにテーブルの上で流しました。この時のわたしは、子どもの気持ちより、一生懸命にやってくれた先生の気持ちに答えようとしていたのです。
子どもは、そのオンラインの画面をチラっと見ました。きっと、良かれと思ってやっているわたしの気持ちに答えようとしてくれたのだと思います。
わが子がオンラインの画面をチラっと見てくれたことを学校へ伝えたら喜んでくれました。でも、学校が嫌いな子どもにとって、今だから分かりますが、オンラインの画面で学校の様子を見ることは苦痛だったと思います。親であるわたしが、子どもの気持ちよりも先生の気持ちを汲んでいた、先生のやりたいことを成し遂げるための手伝いをしてしまったと感じています。
やっとこう気がついたのは、良かれと思ってアドバイスをしてくる学校への対応に困惑しているからです。
でもようやく学校との関係を通して子どもの立場になれることができました。
本当は、学校に限らず、良かれと思ってやってくれることをそのままありがたく受け取れ、感謝する。そうなれたらいいのに、と思います。でもなかなか難しいですね。
子どもの立場になれて感じられる機会があったことを感謝したいと思います。
子どもとの信頼関係の構築は難しいですが、他のだれの気持ちに引っ張られることなく、ただただ目の前の子どもの話すこと、気持ちだけに焦点を当て続けることが信頼を得ていく近道なんだと思います。
この時、目の前の子どもの気持ち以外の全ての人の気持ちは考える必要はないです。それは、わたし自身の気持ちに対してもそうです。子どもの話すことに「アドバイスしなきゃ」とか、「ここは言っておかなきゃ」とか、それ自体も、子どもの気持ちではなく、わたしの気持ちにフォーカスしていると思うのです。
子どもと信頼関係を築くなら、わたしの気持ちにも左右されない、ただただ、目の前の子どもの気持ちにだけ寄り添えばいいのだと学びました。
まとめ
信頼関係を築くことは、本当に難しいと感じています。寄り添うというのが、わたしがいかにできていなかったかを振り返ることができました。
でもやっと子どもが体験していたことをわたし自身がされることで、子どもの危うい立場、強く強く主張しないと分かってもらえない立場の弱さを感じました。何か参考になったら嬉しいです。